2010年01月09日
必要?不必要?
引っ越しをして、
気付いたのは、
不必要なモノを捨て、
必要なものを取り残す又は、取り入れるという
簡単な作業に思える事が
最も難しいという事だ。
物欲王だった僕は、
欲しい物というよりも
モノとして素敵だと思ったモノを
可能な限り買った。
もちろん
調べて一番自分に有ったモノを
買い続けたはずなのだが、
結局、そうでないモノも多く、
捨てたり人にあげたりする作業に
一番手間がかかった。
そこで
考えた。
将来的にというか
必要なものがなんなのか?
僕は、
正直家は、要らない。
何故ならば、
理想と思える持ち家のスタイルを
見いだせないからだ。
家を持った事で
そこに縛られ、気に入らない隣人と
一緒に一生暮らす事も有り得るからだ。
何が一番欲しいかと問われると。
移動が可能なライフスタイルだ。
家は、休憩場所でしかないと子供の頃から
思っている。
一歩出れば、個人の意見や個人の身なりなど
外部に露出しなければいけない。
面倒くさいと言ってしまえばそれまでだが、
外部に露出し成長する事は、絶対的に行なわなければ
ならない。
お酒を家で飲み、意見の会う人とだけ外部を批評するのは、
バカのやる事であり、なにも生み出さないからだ。
外部に出て自分を知る事は、
理想であり、人と人とのコミニュケーションを
取る重要な原点であろう。
そこでの自己主張として身なりや自分の意見を外部に出す事は、
必要な事であろう。
不必要なモノの多くに、
高いカーペットやソファ、ベッド、家電があった。
全て
自己満足の世界だ。
だから多くを捨てた。
服に関しては、ほとんどを人にあげた。
デザイナーとしては、
今或る服に依存しては、今後のデザインなどに
支障をきたすからだ。
勿論、色あせないモノを作って来たはずなので、
悩んだけれど、少しずつでも進化しなければ、
僕の使命は無くなってしまう。
身なりすなわち服や髪型は、
自己主張のアイテムとしては、絶対的に必要なツールで
或ると思う。
コレは、
皆さんが同窓会に行った時に、多くを感じるのかもしれない。
何でもそうですが、
大量生産されたモノには、将来的に価値はない。
大事に作られたモノや、一芸に秀でたモノは、将来的にもずっと付き合い続ける価値がある。
何故ならば、作る人の愛情が違うからだ。
ライン作業で作られるモノは、
作る人は、或る工程だけを続け、
消費者である僕らの事まで見えていない。
必要なのか、
不必要なのか、
これは、
僕個人の意見でしか過ぎないが、
690円のデニムは、
見る事すらしたくない。
なぜならば、
絶対にそこには、労働に対しての
等価取引がされておらず、
タンスの肥やしやごみを増やすだけであるから。
日本人は、
大量生産、大量消費をする国民ではない。
良いモノを見分けてずっと大事に渡り継ぐ国民だ。
着物は、ヤンキーの成人式だけのモノになったが、
日本製の着るものは、自分たちで大事にしたい。
2010年新しい時代の幕開けだ。
気付いたのは、
不必要なモノを捨て、
必要なものを取り残す又は、取り入れるという
簡単な作業に思える事が
最も難しいという事だ。
物欲王だった僕は、
欲しい物というよりも
モノとして素敵だと思ったモノを
可能な限り買った。
もちろん
調べて一番自分に有ったモノを
買い続けたはずなのだが、
結局、そうでないモノも多く、
捨てたり人にあげたりする作業に
一番手間がかかった。
そこで
考えた。
将来的にというか
必要なものがなんなのか?
僕は、
正直家は、要らない。
何故ならば、
理想と思える持ち家のスタイルを
見いだせないからだ。
家を持った事で
そこに縛られ、気に入らない隣人と
一緒に一生暮らす事も有り得るからだ。
何が一番欲しいかと問われると。
移動が可能なライフスタイルだ。
家は、休憩場所でしかないと子供の頃から
思っている。
一歩出れば、個人の意見や個人の身なりなど
外部に露出しなければいけない。
面倒くさいと言ってしまえばそれまでだが、
外部に露出し成長する事は、絶対的に行なわなければ
ならない。
お酒を家で飲み、意見の会う人とだけ外部を批評するのは、
バカのやる事であり、なにも生み出さないからだ。
外部に出て自分を知る事は、
理想であり、人と人とのコミニュケーションを
取る重要な原点であろう。
そこでの自己主張として身なりや自分の意見を外部に出す事は、
必要な事であろう。
不必要なモノの多くに、
高いカーペットやソファ、ベッド、家電があった。
全て
自己満足の世界だ。
だから多くを捨てた。
服に関しては、ほとんどを人にあげた。
デザイナーとしては、
今或る服に依存しては、今後のデザインなどに
支障をきたすからだ。
勿論、色あせないモノを作って来たはずなので、
悩んだけれど、少しずつでも進化しなければ、
僕の使命は無くなってしまう。
身なりすなわち服や髪型は、
自己主張のアイテムとしては、絶対的に必要なツールで
或ると思う。
コレは、
皆さんが同窓会に行った時に、多くを感じるのかもしれない。
何でもそうですが、
大量生産されたモノには、将来的に価値はない。
大事に作られたモノや、一芸に秀でたモノは、将来的にもずっと付き合い続ける価値がある。
何故ならば、作る人の愛情が違うからだ。
ライン作業で作られるモノは、
作る人は、或る工程だけを続け、
消費者である僕らの事まで見えていない。
必要なのか、
不必要なのか、
これは、
僕個人の意見でしか過ぎないが、
690円のデニムは、
見る事すらしたくない。
なぜならば、
絶対にそこには、労働に対しての
等価取引がされておらず、
タンスの肥やしやごみを増やすだけであるから。
日本人は、
大量生産、大量消費をする国民ではない。
良いモノを見分けてずっと大事に渡り継ぐ国民だ。
着物は、ヤンキーの成人式だけのモノになったが、
日本製の着るものは、自分たちで大事にしたい。
2010年新しい時代の幕開けだ。
Posted by ulco at 20:04│Comments(0)
│個人的話